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寄稿文「消費者政策のパラダイムシフト」

新井 ゆたか(※39)

消費者庁は、2009年の設立から15年を迎えます。設立以来、消費者行政の司令塔として、職員一人一人が消費者の目線に立ち、消費者が安全、安心に暮らすことができる社会の実現に向け取り組んでまいりましたが、消費者行政は今、大きな転換点を迎えています。
昨今デジタル化の進展や高齢化、特に高齢者単独世帯の増加等により社会が大きく変化する中、消費者の意思決定や事業者の商品・サービスの広告、提供方法など消費者を取り巻く環境は日々変化しています。
デジタル環境の変化をみてみましょう。総務省がスマートフォンの統計を取り始めたのは2010年です。その年の世帯普及率は9.7%、それが現在(2022年)は90.1%となっており、ここ10年の動きは劇的です。
デジタルツールは情報の流通量を加速度的に増やし、何人も世界中のあらゆるデータに容易にアクセスすることができるようになり、行政手続を含めて私たちの利便性は格段に高まりました。受け手としての利便性の向上のみならず、誰もが情報の発信者になることができます。EC取引により、いつでもどこでも、また、国境を超えた取引も増加しています。他方、EC取引は相手が見えないかつ相手方が多層化しているという特徴があります。「実店舗に出向いて手に取って、説明をきいて現金で買う。」という従来の取引方法ではすべてがその場で完結しますが、EC取引では、購買画面の提供者(プラットフォーマー)、商品を提供する販売者、決済事業者、配送事業者・・・これらがバラバラで国境を跨いでいることもままあります。他方で、EC取引では、「実店舗まで出かける」「手に取って比較・吟味する」「店員に聞く」「支払いのためにレジに並ぶ」といった従来の取引方法の随所にあった「消費」を実現するまでの時間的な余白やゆらぎが少なく、数クリックで「消費」が実現します。また、デジタルは画面には魅力的な割引情報や広告が次から次へと現れます。実店舗の店員が店に出向いた私以上に「今、私が何を求めているか」を熟知していることは希ですが(行きつけのお店や担当店員がいる場合を除く)、AI技術は個人の購入履歴、検索パターン、行動履歴、類似者の履歴等々から、私以上に私の「望み」を把握し、私が意識するより早く「私に合った」情報で、私をくるみこんでいきます。確かに便利ではあるものの、便利だからこそ今までの購入とは異なる慎重さと注意力が必要になります。
このような状況に対応するため、国際的にも様々な議論が提起されています。従来の消費者保護制度は、「一般的・平均的・合理的」な消費者であれば、必要な情報や、適切な判断機会を与えられることで、合理的な判断ができるという概念を前提にしています。しかしながら、デジタル環境では、必要な情報などを十分に有していたとしても不利益で、不公正な取引につながる可能性が指摘されており、このような「脆弱性」の概念を正面から捉えていく必要があります。
類型的・属性的な脆弱性、例えば若年層や認知機能の低下などは従来から各国で一定の支援制度がありました。未成年の保護や成年後見人制度です。他方、デジタルで増幅助長される限定合理性による脆弱性や状況によって生じる脆弱性は誰もが経験しうるものであり、この頻度が高くなっていくことでしょう。今までの取組が十分でない可能性があります。
皆がより安全で安心な消費生活を送り、well-beingの向上を目指すためには消費者政策のパラダイムシフトが必要と考えています。消費者、事業者という二項対立でよいのか。デジタル空間でも従来の規制の延長線で大丈夫なのかなど、視座を変えて根本からの議論をする必要があります。
最近(2024年5月)、2025年の認知症471.6万人軽度認知障害(MCI)564.3万人という患者数の推計値が発表されました。1000万人超はもはや少数の例外ではありえません(ちなみに同じ頃公表された2024年4月現在の15歳未満のこどもの数は1401万人です)。認知機能の脆弱さが消費者として暮らしていくにあたっての障害にならない社会を実現するために何をすべきか、この議論は高齢化先進国の日本でこそ進めていく必要があります。この点からも、皆がより安全で安心な消費生活を送り、well-beingの向上を目指すための消費者政策のパラダイムシフトが必要です。
パラダイムシフトとは物の見方や考え方を抜本的に転換することです。消費者政策のパラダイムシフトは、「消費者」は「事業者」より情報力・交渉力が弱いが、それを補えば合理的に行動できるのが「消費者」だというように、消費者を大くくりでとらえ、大くくりにした消費者像のために必要な仕組みを設けるという従来のアプローチに束縛されず、その殻を突き破っていくということです。Aさんは若い頃は「今だけ」「あなたにだけ」といったうたい文句に弱かったが、年を経るに従ってそれらには惹かれなくなった。他方で最近は契約条件を吟味したり、比較検討することがつらくなってきた。Bさんは大学進学を機に郷里を離れて一人暮らしを始めたばかりで気軽に相談する相手が身近にいない。感性の合う匿名の仲間が集うSNSの情報や噂が頼りだ・・・現実の消費者は時と場合に応じて様々な脆弱性を様々な配分で備えています。そのような現実の消費者の有り様を踏まえた新しいアプローチの消費者政策が必要になってくることでしょう。他方、消費社会では大量の取引が繰り返し行われますので、取引の安定性を過度に損なわないような配慮も必要です。従来のアプローチの殻から抜け出し、それを消費者政策の多様なアプローチのうちの一つとしつつ、消費者の「脆弱性」の概念を正面から捉える新たなアプローチも編み出していく、腰を据えて取り組まなければならない課題です。
発足時からの所管法律の累次改正に加えて、所管法律も増えましたし、食品衛生の基準行政も厚生労働省から移管され守備範囲が広くなっています。発足時に附則や附帯決議といった形で消費者庁ができたらまずもって取り組むべきと期待された数々の「宿題」を返すだけでなく、新たな政策課題に消費者行政が中心になって取り組むことが期待される場面も増えてきました。消費者行政の司令塔としての消費者庁の役割は、今後もさらに充実・刷新しつつ取り組んでいく必要があります。そのためには、消費者庁が所管する法律だけでなく、消費者の利益の擁護・増進に関するあらゆる法律とその運用状況を、あらためて整理・把握したうえで、消費者庁の関与の在り方を検討することが有益でしょう。
15年前200名余で発足した消費者庁は現在2倍以上の定員となっています。何より消費者政策に取り組みたいと消費者庁に入庁してきた職員が100名を超えていることが心強いことです。幅広い経験を積んで組織の中核となってくれることを期待しています。
これからの20年30年、多様な消費者が、安心して安全に生活し、社会を信頼して暮らしていく、そんな景色を実現するために、世の中の変化に対応できるような包括的な仕組みを考えていきましょう。


  • (※39)消費者庁長官。

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